新海覚雄先生を慕う 2021・8・1
今朝の日本経済新聞14ページを開いて懐かしい恩師である新海先生の絵に接した感動を抑えきれず、ホームぺージに掲載する事にしました。絵は1943年(昭和18年)に描かれた「貯蓄報国」112,4×160,0cmですから、F100号かなと思います。勿論、現物の画は所蔵する板橋美術館でも先生の回顧展でも拝見していますし、有名な絵ですから一目見れば分かります。
この絵は先生のタッチ、筆使いが良く出ている上に今も傑作だなと思います。
日経新聞の記事は戦時中の「総力戦を生き抜く」我慢を求め言葉を総動員とあってプロパガンダポスターとの見紛う絵ではなく、その時代に生きる画家の思い、芸術観は脈々と生きつづけ、厳しい統制下にあっても決して心を売り渡してはいない作家魂が表現されているとありましたが、私も、同感です!表現方法に苦闘とあるのも共感するところです。
故新海先生(1868年ご逝去)は芸術院会員であり著名な彫刻家、新海竹太郎の長男として、何不自由なく育ち、川端画学校で油彩画を学び、藤島武二、石井伯亭に師事した洋画家で、私が東京トヨペット在職中絵画部指導の先生としてデッサンから油彩の手ほどきから教えを受け、度々、写生旅行にお供した恩師です、当時は一水会会員でご活躍中でした。戦後は一貫として社会派リアリズム作家としてご活躍、現在大きく再評価され、国立近代美術館等に作品が収蔵されています。現在、私が所属する創展の創立会員として大きな足跡を残され、私を育ててくれた大恩人です。先生の訃報に接した時、目の前が真っ暗になりくるくると奈落の底に落ちていく自分を感じました。
日経新聞の記事は2面に亘り相当なボリュームですので満足する詳細を記載できませんが、終戦時、国民学校(現在の小学校)2年生の私は両親・妹弟と一緒に山奥の村で疎開生活を送っていましたので、子供心にも当時の重苦しい雰囲気はひしひしと感じ取っていました。
日経新聞の記事の中にあった「贅沢は敵だ」「屠れ米英われらの敵だ進め一億火の玉だ」「家庭も小さな鉱山だ、鉄銅製品を総動員!」「お国の為に金を政府に!」金やダイヤは勿論、なけなしの貯金、果ては家庭の鍋釜、門扉、郵便ポスト(鋳物)迄、国家に回収された時代でした。余談ですが、母は大切に持っていた貴金属、ダイヤ等をお国の為に供出しましたが、終戦後、多分相当に残っていたであろう膨大な貴金属類ダイヤなどはどこかに消え、平和な高度成長期を迎えた頃も、国は一言のお詫びの言葉も説明もなく、勿論、返還の言葉もなく現在に至っている事を実に不快そうに語ってくれました。
日経新聞では最後にこんな下りで、新海先生の記事を締めくくっています。大雑把に申せば、「改めて新海先生の貯蓄報国の絵も国の掛け声に応えて、なけなしの金を預けに行く人々の疲れや諦めを静かな表現で捉えていて、厳しい統制下にあって先生も時局に合わせた制作を強要されながら、その中で偽りのない内面表現をどうやって保ち表現するか?そこに心ある画家の苦闘を感じ取ることが出来る」とあり、同感し、懐かしさで、私も先生のお姿を思い出しながらこの記事を何度も何度も読み返しました。
かって時局に翻弄された美術界は今や、コロナ禍に翻弄される次第となりました、創展の礎を築いて頂いた、ご存命の創立会員は現在、誰一人も居られませんが、ひたひたと押し寄せる時代の流れをひしと感じています。
森 務
新海覚雄 創展の創立会員
彫刻家の新海竹太郎の長男として東京で生まれた。平成時代に入って再評価されており、東京国立近代美術館に「老船長」(1933年)が、板橋区立美術館に「貯蓄報国」(1943年)「龍を持つ婦人像」(1954年)他が所蔵されている[1]。
経歴
- 1904年、東京都生まれ、川端画学校に学ぶ[2]。
- 1922年、太平洋画会賞。同会会員[2]。
- 1925年、中央美術展に入選する。同年末より二科展に出品[2]。
- 1928年以降、3年連続で協会展に入選。
- 1946年、芸術家団体一水会会員となる。
- 1948年、日本美術会入会。
- 1950年2月、日本美術会の機関誌『BBBB.』に「人民の画家ケーテ・コルヴィッツ」を執筆。同年、槙本楠郎『コロポックル物語』(泰光堂)の挿絵を描く。
- 1951年-1954年、日本アンデパンダン展に出品。
- 1953年3月、日本美術会の事務局長となる(翌年まで)。委員長は井上長三郎が務めた[3]。
- 1954年、関英雄等編『お話動物園. 4年生』(泰光堂)の挿絵を描いた。
- 1956年7月、『新日本文学』に「リアリズム美術の方法意識」を発表。